夕刻の武錬院は、昼間とは別の場所のように静かだった。
訓練場には、木剣の打ち合う音も、生徒たちの掛け声もない。
ただ一つ。
風を切る音だけが、一定の間隔で響いていた。
ルーカスは回廊の柱にもたれ、しばらくその様子を見ていた。
中央にいるのはキアラだった。
一人。
何度も同じ踏み込みを繰り返している。
速い。
だが、武錬祭で見た時とは違う。
右足を踏み込む直前、ほんのわずかに動きが鈍る。
十回。
二十回。
三十回。
同じ場所で、同じように。
「そこ、痛めてるだろ」
木剣が止まった。
キアラが振り返る。
「……いつからいたの?」
「少し前から」
「声くらい掛けてよ。怖いんだけど」
「掛けた」
「今ね」
キアラは頬を膨らませた。
ルーカスは構わず彼女の右足を見る。
「昨日の試合で捻ったな」
「捻ってない」
「なら、なぜ踏み込む前に重心を左へ逃がす?」
「……」
「無意識だ」
「見すぎじゃない?」
「観察していただけだ」
「それを見すぎって言うんだよ」
キアラは木剣を肩へ乗せた。
「でも大丈夫。これくらい」
「悪化する」
「明日には治るって」
「根拠は?」
「気合い」
「話にならないな」
「その顔やめてよ!」
キアラが笑った。
ルーカスは笑わなかった。
代わりに訓練場へ下り、彼女の前まで歩いた。
「今日はやめろ」
「嫌」
「なぜだ」
「負けたから」
返答が早かった。
ルーカスは少し黙る。
キアラは木剣の柄を握り直した。
「あんな負け方したの、初めてだった」
「そうか」
「腹立つなあ、その反応」
「何と言えばいい?」
「せめてちょっと嬉しそうにするとか」
「なぜ?」
「私に勝ったから」
「勝つつもりで出場した」
「……そういうとこ」
キアラはため息をついた。
それから、少しだけ真面目な顔になった。
「ルーカスって、ずっとそうなの?」
「何が」
「何でも分かってるみたいな顔してる」
「分かってはいない」
「嘘」
「嘘ではない」
キアラが一歩近づいた。
青緑色の瞳が、じっとルーカスを覗き込む。
「じゃあ聞くけど」
「何だ」
「私と戦った時、どこまで本気だった?」
沈黙。
「やっぱり」
「答えていない」
「答えない時点で答えてるじゃん」
キアラは得意げに笑った。
ルーカスは視線を逸らす。
その瞬間だった。
「……ねえ」
声の調子が変わった。
「ルーカスってさ」
少し間を置いて。
「何を怖がってるの?」
ルーカスの目が止まった。
「……何?」
「なんとなく」
「根拠になっていない」
「私、そういうの分かるんだよね」
「何がだ」
「前に出る人と、逃げる人」
キアラは木剣を地面についた。
「ルーカスは、戦う時は全然逃げない」
「当然だ」
「でも、人と話してる時は違う」
ルーカスは何も言わない。
「いつも半歩くらい下がってる」
「物理的には下がっていない」
「そういう意味じゃないって」
キアラは笑わなかった。
「みんなのこと見てるのに、自分のことは見せない」
風が訓練場を抜けた。
「別に悪いって言ってないよ」
「……」
「ただ、変だなって思ってる」
「何が」
「そんなに強いのに」
キアラは首を傾げた。
「なんで誰かに知られるのを怖がってるんだろうって」
ルーカスの中で、何かが動いた。
敵意ではない。
警戒でもない。
探ろうとする意図は確かにある。
だが、それ以上に強いものがあった。
好奇心。
そして、奇妙なほど素直な関心。
「……俺に興味があるのか?」
「あるよ」
即答だった。
「何者か分かんないし、強いし、変だし」
「最後は余計だ」
「あと、本当はもっと強いでしょ」
「……」
「やっぱり」
キアラがにやりと笑う。
ルーカスはため息をついた。
「お前は誰にでもそうなのか」
「何が?」
「踏み込む」
「場合による」
「危険だと思わないのか」
「思うよ」
「なら、なぜ聞く」
キアラは少し考えた。
それから木剣の先で地面を軽く叩いた。
「だって」
顔を上げる。
「知りたいと思ったから」
あまりに単純な答えだった。
ルーカスは言葉を失う。
利益。
安全。
必要性。
相手から得られる情報。
問いかける理由なら、いくらでも計算できる。
だが。
知りたいから知ろうとする。
それだけの理由で、人は他人へ踏み込むのか。
「変な顔」
キアラが言った。
「……そうか?」
「うん」
「どんな顔だ」
「初めて何か聞いた人みたいな顔」
ルーカスは黙った。
少し前、老師にも似たようなことを言われた。
キアラは彼の沈黙を気にせず、再び木剣を構えた。
「で、もう一回やろ」
「話を聞いていたのか?」
「聞いてた」
「足を休めろ」
「軽くならいいでしょ?」
「駄目だ」
「けち」
「明日歩けなくなるぞ」
「じゃあ左足だけでやる」
「余計危ない」
「だったらルーカスが相手してよ。私が無茶しそうなら止めればいいじゃん」
「……なぜそうなる」
「強いんでしょ?」
満面の笑みだった。
ルーカスは彼女を見つめた。
この少女には、計算しづらいところが多すぎる。
危険と理解して前へ出る。
負けても怖がらない。
他人の秘密へ遠慮なく踏み込む。
それでいて、本当に嫌がられれば引くのだろう。
おそらく。
「キアラ」
「ん?」
「お前は、いつもそんなに騒がしいのか?」
「失礼だなあ」
「質問だ」
「うーん……」
彼女は一瞬だけ考えて。
「たぶん!」
笑った。
ルーカスは、ほんのわずかに口元を緩めた。
キアラが目を丸くする。
「あ」
「何だ」
「今笑った」
「笑ってない」
「笑った!」
「気のせいだ」
「いや絶対――」
「足を休めろ」
「話そらした!」
声が、誰もいない訓練場に響いた。
その日の夜。
ルーカスは宿の天井を見ながら、昼間の会話を思い返していた。
彼女を旅へ同行させる価値は高い。
戦闘能力。
判断力。
未知のマナ特性。
勇者血族である可能性。
理由なら十分だった。
それだけのはずだった。
それなのに。
『知りたいと思ったから』
その言葉だけが、妙に頭に残った。
「……非合理的だな」
誰に向けるでもなく呟く。
そして少し間を置いて。
「だが――」
続きは口にしなかった。


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