はじめに ― なぜ「核」の話を書く気になったのか
「核」という言葉を聞くと、正直なところ身構えてしまう人は多いと思います。
私自身も、どちらかといえばそうでした。
一方で、核エネルギーの話を少しずつ調べていくと、
それが最初から「兵器」として生まれたものではないことにも気づきます。
研究室で行われていたのは、純粋に自然の仕組みを理解しようとする試みでした。
この記事では、核融合反応を見つけた科学者たちの話や、
アインシュタインが関わった核研究の歴史をたどりながら、
なぜ核兵器が生まれ、そして今もなくならないのかを考えてみたいと思います。
答えを出すというより、
「皆さんならどう感じるか」を一緒に考えてもらえたら嬉しいです。
Ⅰ.研究室から始まった話
「核」という言葉を聞くと、少し構えるね。
私にとってはずっと、そういう存在。
原爆、放射能、戦争、大量破壊兵器。
ニュースや歴史の中で見る核は、だいたいいつも「人を傷つけるもの」として登場する。
だから正直なところ、
できれば距離を置いていたい話題と言ったところだろうか。
放射能とかって聞くと馴染み深い(?)というか、思い出すのが3.11、東日本大震災だよね。
原発事故があった。
福島とか未だにお家に帰れない人たちがいます(>_<)
国指定の立ち入り禁止区域ってやつになっちゃってるやつね。
ちょっと話外れちゃったんですが、核兵器廃絶という言葉をよく目にするようになり、少しずつ調べていくうちに、ある違和感が…
核の技術は、本当に最初から
「誰かを殺すため」に生まれたものだったのだろうか、と。
核融合という現象がある。
これについて触れておきたい。

とても簡単に言えば、軽い原子どうしが結びつくことで大きなエネルギーが生まれる反応のこと。
太陽があれほど明るく燃えているのも、
この核融合のおかげだと言われている。
1930年代、この核融合反応が地上の実験でも確認された。
それを見つけた科学者たちは、未来のエネルギーや自然の仕組みに純粋な興味を向けていたはずだ。
少なくともその時点で、「これを兵器にしよう」と考えていた人はほとんどいなかったと思う。
ただ、研究室で生まれた発見は、
研究室の外に出た瞬間から、
必ず社会の文脈に置き換えられる。
国家、軍事、戦争、恐怖。
人類はいつの時代も、強い力を目の前にすると「どう使えば勝てるか」を考えてきた。
核の技術も例外ではない。
むしろ、あまりにも強すぎたがゆえに、「使わない」という選択肢が想像しにくくなっていったのかもしれない。
この時点で、私はある事に思いたった。
もしあなたが研究者で、自分の発見が世界を大きく変えてしまうかもしれないと気づいたとき、
それでも研究を続けられるだろうか?
この問いの先に登場するのが、
アインシュタインという人物である。
Ⅱ.署名という選択
Ⅰで触れたように、核の技術は研究室の中で、静かに生まれた。
けれどその技術が、「戦争」という現実の中に引き出されたとき、
避けて通れない人物がいる。
アルバート・アインシュタイン(Albert Einstein)だ。

ドイツで生まれたアインシュタインは、原爆を設計した科学者ではない。
実際の開発現場に関わったわけでもない。
それでも、彼の名前は核兵器の歴史と強く結びついている。
それはなぜか?
理由は、ある一通の手紙にある。
当時、世界は戦争に向かって急速に傾いていた。
ドイツが強力な兵器を開発しているかもしれない、
そんな不安が科学者たちのあいだにも広がっていた。
アインシュタインは、その不安を無視できなかった。
自分一人が平和を願っていても、
もし最悪の事態が起きたら取り返しがつかない。
そう考えた結果、彼はアメリカ大統領に宛てた手紙に署名することになる。
それは、
「核の研究が兵器につながる可能性がある」
という警告だった。
この判断が、のちに原子爆弾開発へとつながっていく事となる。

結果だけを見ると、
「署名しなければよかった」と言いたくなるのも当然だろう。
実際、アインシュタイン自身も晩年にこの行動を後悔していたといわれている。
もし違う選択肢があったのなら、と。
ただ、ここで立ち止まって考えたくなった。
当時の彼にとって、「何もしない」という選択は、本当に責任ある行動だったのだろうか?と。
目の前にある危険を知りながら黙っていること。
それもまた、選択のひとつととらえる事もできる。
だが時には、その「何もしなかったこと」が、より大きな悲劇を招く。
私たちは、結果を知っているから「あの判断は間違っていた」と言えるかもしれない。
でも、判断を下す瞬間に未来が見えている人は存在しない。
アインシュタインは、天才だったかもしれない。
それでも、この場面では誰よりも普通の人だったのではないか、そんな気がした。
その場で考えうる中で、「最悪を避ける」と思える方を選んだのだ。
ただそれだけだったのかもしれない。
ここで、また一つ問いに突き当たる。
もしあなたが同じ立場だったら、この手紙に署名しない、という選択ができるだろうか…
そしてその選択を、結果がどうあれ、最後まで肯定できるでしょうか。
次の章では、
なぜ国家が「核」を手放せなくなっていったのか、
もう少し大きな視点から考えてみたいと思います。
Ⅲ.国家が核を手放せない理由
アインシュタイン個人の判断から、少し視点を引いて「国家」という単位で考えてみましょう。
国家は、人と違って後悔だけでは動けない。
それは失敗が許されない、というより、
失敗のコストがあまりに大きすぎる存在だからです。
核兵器が「必要だ」と語られるとき、よく出てくる言葉がある。
抑止力、という考え方である。
とても単純化すると、
「相手が攻撃してくれば、こちらも報復できる。
だから相手も攻撃してこないはずだ」
という理屈です。
怖い話だが、核兵器は 使われないこと を前提に存在する。
存在しているだけで、相手の行動を縛る道具として扱われるものである。
この考え方は、冷戦の時代に強く支持された。
お互いに核を持っているからこそ、
全面的な戦争を踏みとどまってきた、
そう評価する人もいる。
ただし、ここには前提があり、
それは、相手が合理的に判断すること。
そして、誤解や事故が起こらないことである。
現実の国家は感情を持たない存在のように描かれがちだが、
実際に判断するのは人間である。
政治家であり、軍人であり、官僚である。
彼らは宇宙人などではなく、我々と同じ人間なのだ。
情報が完全である保証はなく、相手の意図を読み違えることも当然あるだろう。
それでも核兵器を手放せない理由は、
「もし自分だけが持っていなければ」
という恐怖が常に付きまとうからである。
核を持つか持たないかは、
道徳的な問題であると同時に、
生存戦略の問題でもあるのだ。
相手が持っていると分かっている中で、自分だけが丸腰になる決断をどの国も簡単には下せない。
しかも、核兵器は
単なる軍事的な道具ではない。
国際社会における「発言力」や「地位」とも結びついている要素である。
核を持つ国の声は重く、持たない国の訴えは時に理想論として扱われてしまう。
そう考えると、核兵器を手放すという行為は、
武器を捨てるだけでなく、
影響力を放棄することにもつながります。
ようは、
「核持ってもない奴に何が分かるの??」
って事ですよ。
国家が核を持ち続けるのは、
好戦的だからというより、
不信の連鎖の中にいるからかもしれない。
誰かが最初に裏切るかもしれない。
その可能性を前にして「信じる」という選択は、
とても勇気のいる行動になる。
この構造の中では、
核兵器は原因というより、結果として存在し続けているようにも見える。
では、この不信の連鎖は、
どこから生まれ、
どうすれば断ち切れるのだろうか。
次の章では、
その境界線に位置する「技術」そのもの、
特にウラン濃縮という問題に目を向けてみたいと思います。
Ⅳ.ウラン濃縮という境界線
ここまでは研究者の判断、国家の論理という二つの視点から
核を見てきました。
では、その両者をつないでいる「技術」そのものに目を向けてみましょう。
核の話題の中で、よく聞く言葉がある。
ウラン濃縮である。
一見すると、いかにも軍事的な響きを持つ言葉だが、
実際には、原子力発電にも欠かせない技術だ。
つまり、発電のための技術と、
兵器につながる技術は、
同じ場所から枝分かれしているのです。
この点が、核問題を特別に難しくしている理由の一つではないだろうか?
ウランは、掘り出したままの状態では核兵器にも原発にも使えない。
特定の性質を持つ成分の割合を高める、いわゆる「濃縮」という工程が必要になる。
問題は、この濃縮が
「どこまでなら平和利用なのか」
という線を、はっきり引けない事。
低い濃度であれば発電用。
高くなれば兵器にも転用できる。
しかし、その技術は連続していて、
途中でスイッチが切り替わるわけでは決してない。
同じ施設、同じ装置、同じ技術者が、
目的次第で全く違う結果を生み出してしまう。
これは、意図を持たない技術の怖さでもある。
ある国が「これは平和利用だ」と説明していても、
外から見て完全に否定することは難しい。
その説明を信じるしかない場面が、どうしても残ってしまう。
だからこそ、ウラン濃縮は単なる技術の問題ではなく、
信頼の問題となってしまうのだ。
相手をどこまで信じられるか。
もし裏切られたらどうなるか。
その不安が、国家同士の関係を硬直させる。
………。
技術そのものには、善も悪もないだろう。
では、境界線を越えた瞬間、
誰が責任を負うの?
研究者なのか。
国家なのか。
それとも、黙認してきた国際社会なのか。
ウラン濃縮は、
人類が手にした力の象徴であると同時に、
「信じることの限界」を突きつける。
完全に透明であることはできない。
それでも信頼しなければ、共存は成り立たない。
この矛盾の中で、
核技術は、今も使われ続けている。
もちろんこんな話をしたところで結論など出せるわけもないわけで…
技術は進み、知識は広がり、
それでも不安は消える事はない。
人類はまた悲惨な原発事故を繰り返すのか。
それは我々が望むことではないはず。
では私たちは、
どこに希望を見出せばいいのか。
落としどころ、というか、
この話に終わりはおそらくやってこない。
それは人類という種の中に巣食う、
支配や欲求の彼方にしかない何かが、
きっとあるに違いない…
おわりに ― それでも核兵器廃絶は語られるのか
ここまで、核をめぐる話を追ってきました。
研究室から始まった発見。署名という一つの判断。国家が恐怖の中で築いてきた抑止の仕組み。
そして、平和と兵器の境界に立つ技術。
どれも、単純な善悪では切り分けられないものばかりです。
正直に言えば、
ここまで考えてもなお「では何が正しいのか」という問いに私ははっきり答えることができないです。
核兵器廃絶は、理想論だと言われることがあります。
現実の国際社会では通用しない、と。
その意見にも、うなずける部分は確かにある。
だがその一方で、
核兵器を前提にした安全が、本当に「安全」と呼べるのかという疑問も残ります。
それは、いつか使われるかもしれない力に世界の均衡を委ね続けるということでもあるからです。
ここまで見てきた中で私が強く感じたのは、
核兵器の問題は「兵器」だけの話ではないということでした。
それは、
人間が不完全であること。
他者を完全には信じられないこと。
それでも共に生きなければならないこと。
そうした、人間社会そのものの問題が、極端な形で表に出ているのが、核兵器という存在なのかもしれません。
だからこそ、
核兵器廃絶という言葉は単なる政策目標ではなく、
私たち自身への問いとして何度も語られ続けるのだと思います。
「恐怖によって守られる平和でいいのか」
「力を持ち続けることで、本当に安心できるのか」
その問いに、今すぐの正解はなくても、
問い続けること自体に意味があるのではないでしょうか。
この記事を読んで、
あなたはどんなことを感じたでしょうか。
納得できた部分もあれば、
反発した部分もあったかもしれません。
もしそうならそれはきっと、この問題が簡単に割り切れるものではない証拠です。
考え続けること、
立場の違いを知ろうとすること。
そこからしか、
次の一歩は生まれない気がしています。

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